2012年4月1日日曜日

【書評】「当事者」の時代 佐々木俊尚

「当事者」の時代 (光文社新書)
「当事者」の時代 (光文社新書)佐々木 俊尚

光文社  2012-03-16
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佐々木俊尚氏、1年ぶりの著書『「当事者」の時代』。450ページを超える大作です。

アルゴリズム中心のWeb2.0から人が中心のキュレーションへの変容を描いた前著『キュレーションの時代』に対し、本書はメディアや論壇にスポットを当てながら、現在のメディアや日本社会が抱える問題を「マイノリティへの憑依」という概念で問題化しています。本書は、一見これまでとは趣が大きく異なる印象を受けますが、本著と『キュレーションの時代』を連続したものと捉えると、ソーシャルメディアの可能性がさらに広がるという感想を持ちました



この本の主題である「マイノリティへの憑依」とは実に難解な概念です。これを正確に理解するには、戦後論壇に関する一定の知識が求められるでしょう。しかし、前半部分で毎日新聞の記者時代の著者の経験が語られることで、予備知識を持たなくても理解しやすくなっていると思います。

第1章では、記者時代の経験が詳細に語られています。「マスメディアは権力に操作されている」と糾弾する安直なメディア批判では把握できない問題の複雑さが、「中の人」の視点からあぶり出されています。ここで描かれている新聞記者と「権力」との緊張関係や、両者の依存関係を理解すると、「新聞記者は権力に操作されている」という見方がいかに単純かを痛感すると同時に、権力と新聞記者が互いの目的を達成するために築き上げた「ウラ」のネットワークの存在が見えてきます。


まさに、それはこの社会のあらゆる場面に存在するのウラとオモテ(あるいは「ホンネ」と「タテマエ」)の象徴のようなものです。マスメディアが権力と密接につながっている一方で、弱者の立場を異常なまでに強調する実態。「市民感覚」と「当局異存」が矛盾なく両立している不思議さが浮き彫りになります。


その原因を説明するキー概念こそが「マイノリティへの憑依」というわけです。
在日、女性、ベトナム(ベトナム戦争当時)など、「弱い人々」の立場を代弁することがマスメディアの使命であると自認する人々。しかし、そこで代弁される「弱い人々」は現実の彼らの立ち位置を反映したものではありません。あくまで、第三者の視点によって、第三者の立場から、彼らとは関わりのない所で語られた「虚像」に過ぎない。自分とは関わり合いのない弱者を代弁している様子は、まさに「憑依」という言い方がしっくりくると実感することでしょう。


言葉を持たない従属的な民のことを「サバルタン」と言いますが、サバルタンは自ら語ることができず、彼らの生活や歴史は常に支配的な他者の視点で描かれてきました(もともと、南アジアの従属民の実態を表現するために使われた用語)。「語られるサバルタン」は現実の彼らの生活とはなんら関係がなく、勝手に代弁された彼らの言い分は無視されて、いらだちだけが募る。そこには有効な対話もなければ、対話によって自己が変容していく契機さえ失われていく。

そこに欠如しているのは、差別や従属される人々を代弁するといいながらも、決して獲得することのできない当事者としての意識です。現実味も生活感もない抽象的な「神の視点」から、決して自分が傷つくことなく、他者を断罪する態度。それは、紛れも無く、他者を利用して自己の立場を正当化する構造のように感じました。

では、私たちはこの問題をどう乗り越えていくのか?

「(...)<マイノリティ憑依>とエンターテイメントが織りなすメディア空間は 、決して読者に「あなたはどうするんです」かという刃を突きつけない<中略>
先ほどから説明してきた二つの読み方、偽の神の視点と、エンターテイメントとしての視点は 、両極端であるけども共通性がひとつある。それはどちらび読み方も「自分の問題として受け止めていない」ということである。
誰もが何かの問題を自分の問題として受け止めるためには、その問題が自分と同じ圏域で起きていなければならない。」
pp.413-414

社会を統合するグランド・セオリーが崩壊したと言われているいま、(小さいけれど)自分を取り巻くこの「圏域」にコミットしていく姿勢が一つの突破口になるように私は思うのです。『キュレーションの時代』ではビオトープの存在や、一個人としてのキュレーターが持つ視座が描かれていました。自分自身の興味関心から生まれたものなのか、否応なくそこに絡め取られてしまった結果なのか分からないけれど、小さな圏域で個人が当事者として生活をしている様を描き出しているように感じました。

当然ながら、(私自身もそうですが)個人が日常で依って立つ圏域は決して一つではありません。会社員としての自己、ノマドとしての自己、父親としての自己、ウェブディレクターとしての自己など、様々な圏域の重なり合う部分に今の自分がいます。その立場は唯一無二のものであって、誰一人として自分と同じ立場で同じ見方をする人は(概念上は)存在しません。

ソーシャルメディアの可能性があるとすれば、そこで当事者の立場から語ることで、同じ圏域にいる別の人たちが共鳴していく点にあるように思います。それぞれの圏域は自己充足した閉じた円環ではなく、他の圏域の影響を受けながら(あるいは、影響を与えながら)絶えず変化していくものだと私は考えています。そして、その影響を行使する主体こそが私たち一人ひとりであると(楽観的ですが)考えられるわけです。

その結果がどのような世界につながるかは未知数ですが、「マイノリティの憑依」がもたらしたこの社会の閉塞感を崩壊するきっかけになるのは間違いないように思います。




「当事者」の時代 (光文社新書)
「当事者」の時代 (光文社新書)佐々木 俊尚

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